Charlie "Bird" Parker (1920 - 1955)
ビ・バップ発祥の地と云われるニューヨークはハーレムのジャズクラブ「Minton's Playhouse(ミントンズ・プレイハウス)」で1941年にDizzy Gillespie(ディジー・ガレスピー)やKenny Clarke(ケニークラーク)などの前衛ジャズメンがクールなビバップを誕生させました。 その中にチャーリー・パーカーもいたのです。 1943年頃にはまだ知られていなかったビバップは1949年には認められたのです。 そしてその年の12月にニューヨークのブロードウェイ52丁目に花形のパーカーの名を冠したジャズ・クラブのBirdLand(バードランド)が誕生しました。
革新的なジャズの演奏スタイルのビバップは1940年代半ばから1950年代初めにかけてが全盛期だったようですが、日本でも1950年代から1960年代にかけてアメリカ同様にビバップとその後のハードバップ(モダンジャズ)が大流行し、音楽知識など全く無い私でしたが1961年にArt Blakey and Jazz Messengers(アート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズ)が来日したことでモダンジャズを身近に感じるようになりました。
ビバップを生み出したディジー・ガレスピーとチャーリー・パーカーのツーショット写真が見られるCharlie Parker Photos - Sonic.net
1953年にDebut Records(デビュー・レコード)からリリースしたアルバム「Jazz at Massey Hall The Quintet(ジャズ・アット・マッセイ・ホール)」で共演したジャズメンはチャーリー・パーカー(チャーリー・チャン名義)をはじめ、パーカーが"Birks(バークス)"と呼んだEarl Hines(アール・ハインズ)楽団時代の永遠のライバルであったディジー・ガレスピーやBud Powell(バド・パウエル)や、Max Roach(マックス・ローチ )やCharlie Mingus(チャーリー・ミンガス)のバップ5大プレーヤーだったそうです。 その後のパーカーの弟子ともいえるMiles Davis(マイルス・ディヴィス)やChet Baker(チェット・ベイカー)などにも代表されるいわゆる複雑で奇抜なジャズの演奏形態の一つであります。 不安定とも破壊的ともいえるほど危なげで、当時の言葉で言い表せばイカシタジャズがビバップのことでした。 それはいわばジャズ界のアウトロー。 ジャズに全く詳しくない私が一番好きな演奏スタイルは短期間で消え去ったこの破天荒なビバップです。 アルトサックスというとビバップならPhil Woods(フィル・ウッズ)もいますが、Benny Carter(ベニー・カーター)と共にスイングジャズ時代の三大アルトサックス奏者と呼ばれたWillie Smith(ウィリー・スミス)やJohnny Hodges(ジョニー・ホッジス)のような情緒たっぷりでトロけるような演奏も良いです。 Lee Konitz(リー・コニッツ)やArt Pepper(アート・ ペッパー)と共にモダンジャズ(ハードバップ)の3大アルト・サックス奏者に入れられたチャーリー・パーカーはまた格別です。 音楽とは関係ないですが林芙美子の「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」なんて言葉が浮かんできます。 40年代後期から50年代にかけてのジャズはビッグバンドなどの編曲された楽譜通りの演奏から、この時期、小編成楽団で個々のプレーヤー独自のアドリブ(即興演奏)重視で自由裁量の演奏スタイルに変わったのです。 一定のリズムを刻むのでダンスに最適な心地良いスウィング音楽のファンにとってバップは耳障りともいえる奏法でしたが、ジャズ音楽のファンにとっては刺激的で素晴らしい大改革だったのです。 スウィングジャズのオーケストラ(楽団)に比べてパーカーやディジー・ガレスピーが1940年代に結成したビバップのコンボ(小編成楽団)ではピアノにサックスやトランペット、ベースやドラムのリズムセクションなどが多かったようですが、時にはギターや� �ロンボーンやバイオリンなどが追加されました。 私にとってスウィングは郷愁を、ビバップは青春を思い起こします。
ジャズの都と呼ばれたカンサス・シティ出身のCharles Parker, Jr.(チャーリー・パーカー)は1930年代の後期に音楽活動を始めた天才サキソフォン奏者でビバップの創始者といわれています。 とはいえチャーリー・パーカーが実際に評価を得たのは死後のことだったそうです。
Birdland
ニューヨークがシカゴから移動してきたジャズ・ミュージシャンで賑わった1940年代末に誕生したジャズクラブはレコード・レーベルのRoulette Records(ルーレット)やBirdland(バードランド)を含むたくさんのナイトクラブのオーナーだったMoishe Levy(モシェ・レヴィ)がバードのニックネームを付けたそうです。 その頃はパーカーの全盛期でもあり、他にもディジー・ガレスピー、Thelonious Monk(セロニアス・モンク)、マイルス・デイビス、John Coltrane(ジョン・コルトレーン)、バド・パウエル、Stan Getz(スタン・ゲッツ)、Lester Young(レスター・ヤング)、Erroll Garner(エロール・ガーナー)といった面々が毎夜演奏しており、顧客にはハリウッドの有名人だったGary Cooper(ゲーリー・クーパー)やMarilyn Monroe(マリリン・モンロー)などが顔を出し、歌手ではFrank Sinatra(フランク・シナトラ)やSammy Davis Jr.(サミー・デービス・ジュニア)なども常連だったそうです。 ジョン・コルトレーンがアルバム「Live at Birdland」を録音したり、ラジオ放送が生放送されたりと毎晩ライヴ演奏が行われたバードランドの名を取った曲にはJoe Zawinul(ジョー・ザヴィヌル)が作曲した"Birdland"をはじめ、ラテンの"Mambo Birdland"、バードランドのビッグバンドだったBirdland Dream BandのトランペッターのMaynard Ferguson(メイナード・ファーガソン)の"Blue Birdland"などいくつか作られましたが、なかでも盲目のピアニストであるGeorge Shearing(ジョージ・シアリング)がバードランドのために1952年に作曲した"Lullaby of Birdland"という曲が有名です。
そのバードランドは閉店再開を重ねて今現在もマンハッタンで健在だそうです。
☆ジャズクラブ「バードランド」についてはチャーリー・パーカーとガレスピーやアート・ブレイキーやコルトレーンなどに加えクラブ専属の司会者だったピー・ウィー・マーケットの写真が見られるBirdland - Jazztet.com
"Birdland, The Jazz Corner of the World" - Charlie Parker(Click "History" on the menu)
☆ジャズクラブ"Birdland"の司会者だった小男のPee-Wee Marquette(ピー・ウィー・マーケット)についてはHot'n Coolのバードランドの名物司会者「ピー・ウィー・マーケット」
Charlie Chan
バド・パウエルのソロ・ピアノが素晴らしい"All The Things You Are"などを収録した953年のライヴ・アルバム「Jazz at Massey Hall The Quintet」でチャーリー・パーカーは契約上の問題によりアルト・サックス演奏者のCharlie Chan(チャーリー・チャン)と表記されジャケット写真も鮮明ではありませんでした。 なぜ中国名のチャーリー・チャンなのか。 オハイオ出身のアメリカ人の作家であるEarl Derr Biggers(アール・ディア・ビッガース)の小説に1920年代から1930年代の「チャーリー・チャン」シリーズがあり映画にもなりました。 その主人公の中国系アメリカ人の探偵がチャーリー・チャンだったそうです。 パーカーはこのモノグラム・ピクチャーズ映画のB級探偵映画を観たのでしょうか。 それとも内縁の妻のChan Parker(チャン・パーカー)の名前と合わせたのでしょうか。
Charlie Chan - The Chinese Cat (1944) - YouTube
Yardbird
チャーリー・パーカーは初期の頃にはYardbird(ヤードバード)、そして後にはBird(バード)と呼ばれていました。 一説によると"ヤードバード"という愛称は二十歳になったばかりのチャーリー・パーカーはT-Bone Walker(T・ボーン・ウォーカー)が在籍していたカンサス出身のジャンプ・ブルースのピアニストでありダンスホール専属バンドのJay McShann Orchestra(ジェイ・マクシャン)の楽団に1938年に参加しました。 その1940年から1941年頃のこと、ツアーの道中で偶然ニワトリ(Yardbird)を見つけた食欲旺盛なチャーリー・パーカーが捕らえてその今晩の夕食にしたんだとか。(ジェイ・マクシャン談) 実際にパーカーの食欲というのがすごかったらしいです。 これ以外にもバード"というニックネームの由来はパーカーがフライドチキン好きだとか、パーカーがニューヨークに出て来た当時皿洗いをしていたハーレムのJimmie's Chicken Shack(レストラン)の裏庭で練習していたからだとかいう説がまことしとやかに伝えられています。 ジェイ・マクシャン・バンドでは遅刻常習癖のため短期間でクビとなったチャーリー・パーカーでしたがその後のニューヨークでの活躍が認められバンドに復帰したそうです。(1938 -1942)
Charlie Parker with Jay McShann (1940) - Lady Be Good - YouTube
※1940年にブルース歌手のJimmy Witherspoon(ジミー・ウィザースプーン)が楽団に参加したジェイ・マクシャンについてはJay McShann - lLvinBlues.com
チャーリー・パーカーはジェイ・マクシャン楽団以外にも数々の楽団に所属しましたがBilly Eckstine(ビリー・エクスタイン)が1944年に結成したビバップ・ビッグバンドのBilly Eckstine & His Orchestra(ビリー・エクスタイン・オーケストラ)にも席をおいたことがあったそうです。 ビリー・エクスタインは1940年代初期にモダンジャズ・ピアノのEarl Hines(アール・ハインズ)の楽団でディジー・ガレスピーやサラ・ヴォーンと一緒だったそうで、ライブアルバムの「Bird in Time 1940 - 1947」で"Honeysuckle Rose"と"Body and Soul"などを演奏しています。
Charlie Parker with Lester Young and Willie Smith et al. - Lady Be Good (1946) - YouTube
Charlie Parker: The Bebopper
テンポの速いBebop(ビ・バップ)もしくは短くしてBop(バップ)というジャズのスタイルは第二次世界大戦の初期頃にミュージシャンの隠語から出た言葉らしく、1940年代半ばから1950年代初めにかけてが全盛期でした。 ビーバップは1940年代に入った頃、白人中心のスウィングジャズには満足できなくなった黒人ジャズメンがアフターアワー(閉店後)に即興演奏を楽しんだ、もしくは演奏テクニックを競ったことから始まったのがモダン・ジャズの前身といえるそうで、そのオリジンはチャーリー・パーカーの出身地で発祥したカンサス・シティ・ジャズだそうです。 それまでのさして複雑ではない演奏に合わせて踊れるビッグバンドタイプとは全く異なり、曲のテーマ(メインとなるメロディー)を演奏した後は各プレイヤーが次々 と独自のアドリブ演奏をする一種のスタンドプレーが特徴で踊らずに聴くだけの音楽となってしまいました。 ビバップの始祖、元祖アドリブ演奏というと1939年にテナーサックス奏者のColeman Hawkins(コールマン・ホーキンス)がレコーディングして一躍有名になった"Body and Soul(見も心も)"でした。 コールマン・ホーキンスの革新的な演奏の他、ギタリストのCharlie Christian(チャーリー・クリスチャン)や、パーカーやディジー・ガレスピーが参加していたシカゴジャズのピアニストであるアール・ハインズやジェイ・マクシャンの他、ピアニストではArt Tatum(アート・テイタム、トロンボーン奏者のJack Teagarden(ジャック・ティーガーデン)、テナーサックスではレスター・ヤング、トランペットではRoy Eldridge(ロイ・エルドリッジ)といった先輩の演奏を後のジャズメンが倣うことになったのだそうです。 奇抜ともいえるビバップ奏法は後期に活躍したSonny Stitt(ソニー・スティット)やClifford Brown(クリフォード・ブラウン)などにより和らげたハードバップ・スタイルで受け継がれました。 麻薬代のために時には自分の楽器を質入れしてしまい借り物で演奏したこともあるチャーリー・パーカーが1940年からジェイ・マクシャン楽団時代に使用したアルト・サックスはFrank Holton(フランク・ホルトン社製)ではないかと云われているそうですが、アルバムのカバー画像では1949年から1947年までのアルトサックスは白いマウスピースのConn 6M(Naked Lady)だそうです。 ちなみに1949年から最後のステージまで使用したのはKing Super 20-b(キング スーパー20)なんだとか。
実際、コールマン・ホーキンスの"Body and Soul(ボディ・アンド・ソウル)"やチャーリー・パーカーの"Lover Man(ラヴァー・マン)"では聴いてるだけで息が止まりそうになり、とてもじゃないが踊れません。 パーカーが演奏したこのLover Manという曲はLover Man (Oh, Where Can You Be?)として1941年にJimmy Davis、Roger ("Ram") Ramirez、James ShermanによってBillie Holiday(ビリー・ホリデイ)のために書かれたポピュラーソングでした。 ビリー・ホリデイの後に黒人ジャズ歌手ではSarah Vaughan(サラ・ヴォーン)、Ella Fitzgerald(エラ・フィッツジェラルド)、Etta James(エタ・ジェームス)、Dinah Washington(ダイナ・ワシントン)、白人歌手でもHelen Merrill(ヘレン・メリル)、Chris Connor(クリス・コナー)、Blossom Dearie(ブロッサム・ディアリー)などが歌っています。
私の好きな二人の息も止まるようなバトル! コールマン・ホーキンスとチャーリー・パーカーとの1950年のニューヨーク・セッションの貴重なビデオはColeman Hawkins with Charlie Parker - YouTube
チャーリー・パーカーの写真や演奏のサンプルが聴けるPBSのJAZZ A FILM By Ken Burns - Charlie Parker
チャーリー・パーカーのオフィシャルサイトがあるそうです。 左のメニューがらパーカーのバイオやディスコフラフィーが見られますが、メニューのMusic Clipsをクリックしてもクリップは聴けません。
The official Site of Charlie "Yardbird" Parker
パーカーフリークのためのオアシス Chasin' the Bird